夜、大きな帽子をかぶり楽器を抱えたマリアッチ8人ばかりを連れ、思いを寄せる彼女の家の前で愛の歌をささげる。真っ暗な部屋に明かりがともれば、それが「イエス」の証し――。メキシコのロマンチックな習慣、セレナータ。
「日本でやったら近所の人に通報されちゃって、警官が飛んできたよ!」。サム・モレーノさんがおどける。浅黒い肌に、口ひげ。郷土民謡「ランチェラ」を堂々と歌う姿は、メキシコ人そのものに見える。英語で話しかけられることもしばしば、という逸話もありながら、実は日本人だ。
60年代初めに日本にやってきたラテン音楽が、当時高校生だったサムさんをしびれさせた。本場の音楽に触れようと、メキシコ、ロサンゼルスと世界を放浪。「サム・モレーノ」は、そのころから名乗っている。
帰国後、「音楽も料理もメキシコ一色の店を」と、今のレストランを開業した。しかしシェフが代わるたび料理の味が安定せず、閑散とした日が続く。
窮地を救ったのは、かつてサムさんの「セレナータ」に応えた妻のルミさんだった。店の台所を手伝ううちに料理を覚え、本場で学んでシェフになった。食べ歩いて研究を重ねた自慢の一皿は「ポージョ・コン・モレ(モレソースの鶏料理)」。チョコレートや数十種類のトウガラシ、木の実などを使ったソースは、最初は甘く、それから苦みや辛みがくる。ちょっと忙しい味だが、トウモロコシ粉で作ったクレープのような「トルティーヤ」に包むと、ちょうどいい。
金曜の夜、店は熱気に包まれていた。サムさんのギターに合わせて、メキシコ人ウエーターも仕事を忘れ、顔を真っ赤にして歌い叫ぶ。テキーラでほどよく酔った客が、勢いよくマラカスを振り上げる。「人生は楽しまなきゃ、っていうのがメキシコの美学」とサムさんは言う。開店からちょうど10年。「いまやっと、その雰囲気が出せるようになったかな」