川崎市の住宅街にある菓子工房「リリエンベルグ」。果物の旬にこだわるため、ほとんどのケーキは2カ月ほどしかお目にかかれないが、旬に左右されない「ザッハトルテ」は、年間を通して作られている。
オーストリアを代表する菓子のザッハトルテは、19世紀初頭に生まれた。「会議は踊る」と皮肉られたウィーン会議を主宰した一人メッテルニヒの「おいしいお菓子を」の命を受け、お抱え料理人のザッハが考案したという。評価は上々、菓子には彼の名が付き、ヨーロッパ中の宮廷に広がった。
同店のシェフ横溝春雄さん(59)は20代のころ、ウィーン王宮御用達菓子司の歴史を持つ「デメル」で修業した。創業200年余のデメルの歴史の中で、外国人が門をくぐったのは初めて。「門外不出といわれたレシピを習得した2年間で、ウィーン菓子のとりこになった」と言う。
ザッハトルテは、チョコレートのスポンジにアンズジャムを塗り、チョコレートの糖衣をかけた素朴な菓子だ。それゆえに、作るのは難しい。
例えば、チョコレートの糖衣。「10回作ってもすべて同じ味になるとは限らない」と横溝さん。鍋で溶かしたチョコレートに砂糖を加えてよく混ぜ、110度まで煮詰める。これを台の上に流してヘラですり伸ばし、鍋に返す。この作業を繰り返し、特有のツヤを引き出す。「気が抜けない作業です。作っていて飽きません」
バター、小麦粉、チョコレートの分量の比率が同じなのは、デメルのレシピそのまま。一方で、ふんわりと焼き上げるために、空気を抱き込ませるようにかき混ぜたり、口に入れるとスッと甘さが消えるようにビターチョコとスイートチョコをブレンドしたりするのは、横溝流だ。
「風土や気候が変われば、おいしさの感覚も変わるから」
店内は、焼けた小麦粉や蜂蜜の「幸せな香り」に満ち、来店者の顔をほころばせる。