大岡越前守がここにいた!
数寄屋橋を渡った場所には南町奉行所がありました。あの大岡越前守が町奉行をつとめたことで有名です。2007年に完成した有楽町駅東口の再開発、有楽町イトシアの工事に伴う発掘で奉行所の様子がわかり、その遺物の展示もされています。
なんといっても驚くのが「大岡越前守」と書かれた木札の発掘です。奉行所の地下から出てきた大きな木枠の中に、伊勢神宮の神官が大岡越前守の家臣にあてた木札が残され、「大岡越前守様御屋敷」と書かれていたのです。

イトシア地下にある出土した木枠=写真左 出土した石垣を再利用した椅子=同右
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この木札の写真と木枠の実物が、有楽町イトシア地下のコンコースに展示されています。ここには同じく屋敷跡から出土した木樋(水道管と思われます)を転用したベンチや、石垣を加工した椅子などが置いてあります。また地上の広場には石垣を再現したベンチや奉行所の敷地図などの説明板もあります。イトシア周囲には石垣を利用したベンチが数多く配置されており、江戸と現代を結ぶいい試みだと思います。
さて数寄屋橋から銀座4丁目方面に戻りましょう。中央通り、晴海通りを中心に碁盤の目のように通りが張り巡らされ、近代的な都市計画の産物のように思われがちですが、これも家康のプランです。
もともと銀座の地は、江戸前島と呼ばれた江戸湾に突き出た岬のような土地でした。レーザー測量によって作られたデジタル地図というものがありますが、この地図で見た細かな等高線を見ると、銀座4丁目を中心とした土地は海面からやや高くなっており、江戸時代から安定した土地だったことがわかります。一方で日比谷、大手町あたりは海抜0メートルに近く、昔は海だったことが想像されます。家康は、江戸城と対面するこの安定した土地に、幕府の経済を支える町人地を築こうと思ったのでしょう。日本橋から続く東海道は、やや高くなった土地の真ん中ををまっすぐに貫いています。
碁盤の目に計画された街、銀座

銀座2丁目の中央通りに置かれた「銀座発祥の地」の碑
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日本橋のところでも述べましたが、江戸城の建設と平行して町人地の開発も進められ、家康の江戸入府直後には日本橋地区、続いて京橋地区、銀座地区と土地の拡大や掘り割りの整備が進みました。銀座が整備されたのは、先に述べた銀座役所が開設された1612年のことでした。正式な名は新両替町という名で、現在の銀座4丁目までの北半分が整備され、その後現在の8丁目まで町割が進みました。「新両替町」というのは、京都や駿府(静岡市)にあった銀座役所に対し「新しい」という意味でしたが、庶民は通称の「銀座」を使っており、明治になって正式に「銀座」という町名になりました。当初銀座の南には「尾張町」「加賀町」「出雲町」などの町名がありました。土地整備を担当した大名の出身地にちなんで名を付けた、とも言われています。
このとき作られた町割の基本は現代にそのまま引き継がれています。たとえば中央通りの道幅はこの時に作られた幅のままです。現在の車道の幅は約16メートルで、これは当時計画された8間(1間は約2メートル)のままです。また街区は120メートル(60間)四方で統一されており、並木通り、外堀通りに当たる道も整備されていました。東西を貫くみゆき通りや花椿通りなども、名前は異なりますがすべて江戸時代からありました。道幅もほぼ当時のままです。

橋の面影を残す三原橋下の商店。真ん中の道は川だった
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大きく変わった点は銀座の周囲を囲む堀がすべて埋め立てられてしまったことです。銀座の東の境であった三十間堀川も戦後埋め立てられて今は三原通りとなっています。江戸時代の銀座は島のような場所だったのです。橋がないのに数寄屋橋、土橋、木挽橋、三原橋などの地名が残っているのはそういうわけです。
また、三十間堀川から東は築地地区ですが、この「築地」という名前は、埋め立てで「地」を「築」いた場所、ということから来ています。銀座ができてからも続いていた神田川開削工事などの土砂で埋め立てを進めたといいます。
江戸時代に計画されたままの中央通りの道幅

「きゃうばし」と書かれた石の欄干。明治初期に作られたもの
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中央通りと並木通りの間など大きな通りの間には、小さな通りが2本南北に通っている場合が多いですが、これも江戸時代に起源があります。江戸時代に計画された街区の大きさは120メートル四方と述べましたが、一つの町割はさらに40メートル四方で「井」の字型に区切られ、9つに分けて利用が図られていました。当初はこの「井」の字の境には道はなかったのですが、明暦の大火以降新道として整備されていき、今のような街区ができあがりました。
中央通りを北に進むと高速道路と交差する場所に出ます。ここが京橋のあった場所です。今は記念碑と「京橋」と書かれた欄干が残っています。江戸時代の地図や絵もある説明版があります。ここから北は京橋地区で、この中心を通る日本橋通りはやや西に傾き、江戸時代は通りの向こうに筑波山が望めたようです。

今は説明板だけが残る鍛冶橋跡
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鍛冶橋通りに出たら西に曲がりましょう。すぐに外堀通りと交差する鍛冶橋交差点に出ます。ここもその名の通り鍛冶橋という橋が外堀に架かり、鍛冶橋御門という桝形門がありました。この鍛冶橋の北側、パシフィックセンチュリープレイスの建設工事の際、外堀の石垣跡が発掘され、丸の内1丁目遺跡と名付けられました。ここでは石垣の土台部分が170メートルにわたって見つかり、工事の進め方や工事を担当した大名の分担方法などの解明に役立ちました。ここから出土した石垣は以前歩いた小石川後楽園の築地塀に再利用されています。(
第6回の写真)
東京駅はもう目の前です。最近再開発が続き、次々と新しい高層ビルが建っていますが、その下には江戸城の外堀や門、大名屋敷が眠っているのです。