太田道灌ゆかりの梅林坂

梅林坂下に植えられた梅。
|

汐見坂。
|

解体修理された汐見坂と梅林坂の間の石垣。白い石が交換された新しい部分。
|
坂を下ると二の丸です。二の丸は将軍世嗣(跡継ぎ)が住む場所とされ、本丸を小さくした御殿が築かれ、大奥もありました。梅林坂を降りてまっすぐ進むと天神堀と平川堀の間を通り、平川門から外に出られます。この場所の天神堀は、まるで深山の池を見るような雰囲気で落ち着きますが、今はそちらへは進まず、右へ向かいましょう。
右手に本丸がある高い石垣があります。さらに進むと右手から坂が降りています。汐見坂です。この石垣の部分は、当初は白鳥堀と連なる堀があり、本丸と隔てられていましたが、本丸の拡張工事の際、堀が一部埋め立てられて汐見坂が作られました。汐見坂の名は、できた当初はこの方向に江戸湾が望めたため、といいます。今ではビルしか見えませんが。
この梅林坂と汐見坂の間の石垣も、2002年から2005年にかけて解体修理され、面目を一新しました。その修理によって判明した結果が、やはり解説板で詳細に述べられていますのでご覧になってください。
この石垣の下からは西の丸に移転した東照宮の遺構が残され、また明暦の大火の大量のがれきも見つかりました。この石垣も火災などで傷んだものは新しく同じように作られた石と交換されました。同じ産地の石を使っていますが、長年の風雨にさらされたものとはやはり表面の色が異なり、取り替えた方が白っぽくなっています。ところが白い交換された石は汐見坂の側に多くなっています。これは火災などで焼けて傷んだ石が汐見坂の側に多かったためのようです。
さてここで、石垣の種類について少しお話ししましょう。
石垣の作り方にはいくつかあります。まず基本的な積み方ですが、自然の石をそのまま積み上げただけの野面(のづら)積み、石垣の表面の部分を平らに加工した打込接(は)ぎ、さらに表面部分の形を整形し、隣り合う石同士を密着させる切込接ぎの3種類があります。
野面積みは穴太(あのう)積みと呼ぶ場合がありますが、これは近江の石工集団、穴太衆が積んだ石、という作り手の名称のことです。石垣が城づくりに使われるようになったのは比較的新しく、戦国時代になってのことのようです。その際、最初に石垣が発生したのが近江といわれ、穴太衆は最先端の石垣構築集団でした。
野面積みは自然石を積んだだけなので隙間が多く、登ろうと思えば簡単に登れますし、見た目も美しくありません。しかし石垣の内側の排水をあまり考える必要がなく、また隙間が衝撃を吸収するため、地震にも強いと言われます。
打込接ぎは野面積みよりは登りにくいのですが、石垣と石垣の間が少ない分、内部の排水を考慮しなければなりませんでした、また石の加工に手間がかかります。

打込接ぎの石垣。江戸城本丸北側。
|
切込接ぎは石同士が完全に密着するため内部の水の出口がありません。高度な設計と排水施設の設置がなければ作れませんが、ここを登るのはほぼ不可能です。ただ地震などでずれが生じた場合は積み直しや修復が必要でした。
江戸城では野面積みの場所はおそらくないと思います。大部分は打込接ぎで、門などの重要部分は切込接ぎになっています。
また石の表面の形をなるべく長方形にして大きさを揃え、積み上げた石の横の線を一直線に揃えたものを布積みと言い、これに対し石の大小を不揃いにし、形も長方形にこだわらないものを乱積みと言いました。現代に作られる石組みのほとんどは、正確に石の表面の形が同じになった布積みですが、この積み方ですと地震や大雨の際、一直線にそろった線で一気に崩れる危険がありました。乱積みは一見技術的に未熟なようですが、その場その場で個々の石を密着させる必要があり、手間も技術も必要でした。
伊豆からはるばる運んだ石
さらに石垣が曲がる角の部分では、直方体の大きな石を積み木のように交互に組み合わせる算木積み、という工法も使われました。こうすることで強度が増したのです。

切込接ぎ乱積みの美しい石垣。桜田門で=写真左 算木積み。天守台跡で=同右
|
江戸城の石はそのほとんどが伊豆半島から運ばれました。東伊豆が中心ですが、小田原付近から西伊豆まで広い範囲に渡っており、材質は主に黒っぽい火山岩の安山岩です。今でも東伊豆町などに石切場などの跡が残っています。幕府は伊豆の石を使えるのは江戸城だけとし、石垣工事を請け負った大名達は、石の切り出しから運搬、工事を一貫して担当しました。ですので石を切る労働者やその宿舎、食料の確保、運搬する船や船頭、石を移動させるクレーンのような器具など、気の遠くなるような準備、出費が必要でした。
石切場での事故や運搬時の船の転覆、工事中の土砂崩れなどで何百人、何千人という死者も出たようです。大名一家だけで1回の工事にのべ数万人の動員が必要でした。江戸城の完成までにはおそらくのべ数百万人もの労働者がかかわったことでしょう。
これら石垣工事の様子は、以前に訪れた虎ノ門駅11番出口や市ヶ谷駅の展示コーナーでよくわかります。石垣を運ぶ際に修羅(木でできた船のような運搬台)に載せて、大勢でころの上を転がす様子などが描かれた絵も展示されています。石の上に人が乗って音頭を取っていますが、なんとも奇妙な格好で、現代のピエロのようです。石垣づくりがただの工事ではなく、一種のお祭り騒ぎであった様子がうかがえます。
バラエティに富む現在の二の丸

武蔵野の面影を残す二の丸雑木林=写真左 皇居正門石橋の街灯=同右
|
では二の丸を詳細に見て行きましょう。汐見坂を眺めたあとでうしろを振り返ると雑木林が広がっています。武蔵野をかつて覆っていた雑木林を都心に復元しようと昭和天皇の発案で作られたものです。なかなか気持ちのいい散策路になっています。
また近くには、どこかで見たような古めかしい街灯がポツンと一つだけ建っています。これは皇居正門石橋をかつて照らしていたものです。現在は新しいものに交換されたため、以前使われていたものを一つだけ保存してあるのです。ふだんは近づいて見られないものですからよく見てみましょう。台座の部分が獣の足になっていたりしてなかなか面白い造形です。
今度は少し梅林坂方面に戻ります。様々な種類の木が植えてある一角が右側に現れます。ここは全国の都道府県の木が集められた一角です。北から南まで様々な木があるので針葉樹あり広葉樹あり、さらには宮崎県のフェニックスありで、その多様さが日本の自然の幅広さを物語っています。

都道府県の木のエリア。
|

諏訪の茶屋。
|

奥の築山から眺めた二の丸庭園。
|
その向こう側には茶室が見えます。これは諏訪の茶屋と言い、江戸時代には吹上御庭にあったものです。現在の建物は明治時代に再建されたもので、東御苑の整備に当たりさらに移築されたものです。
茶屋の前には庭園が広がります。3代将軍家光の時代には、名園を数多く作ったという小堀遠州作の庭園がこの場所にあったといいますが、現在のものは絵図面が残る9代将軍家重時代のものを、東御苑整備の際再現しました。季節によって様々な花が咲くので、時期を変え、いつ来ても楽しめます。特にサツキ、ショウブ、紅葉の季節が見事です。
庭園をぐるっと巡り、休憩所を過ぎるとまた白鳥堀の所に戻ってきます。左手に向かうと百人番所のある広場に戻って行けます。大手三の門跡を通り大手門から戻りましょう。
皇居東御苑のすべてをじっくり見るには2、3時間以上はかかります。お弁当でも持って、午前中からゆっくり回ることをお勧めします。
◇ ◇
さてこれで江戸城はほぼすべて見て回りました。次回は江戸城の歴史について少しお話しします。
(黒田 涼)