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2008.12.1(月)更新  江戸城を歩こう/両国橋からお茶の水(上)
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江戸城を歩こう
− 両国橋からお茶の水(上) −
大火で変わった神田川ぞい
 今回歩く両国橋、柳橋からお茶の水までは、どちらかというと古い下町のイメージがありますが、実は江戸時代に自然改造を重ねた新開地として作られた場所です。また江戸城建設からしばらくたってからの大火で、その町並みを大きく変えた場所でもあります。そしてその痕跡は今も残っています。

◇                ◇

 やや離れていますが、両国駅から両国橋に向かいましょう。橋とは反対側ですが、江戸東京博物館があり、こちらを見学してから向かうのもいいかもしれません。

 隅田川にかかる両国橋を渡ります。この橋がなぜ「両国」なのでしょう。隅田川は、今は東京都北区の岩渕水門から流れる短い都市河川ですが、昭和の初めに荒川放水路が完成するまでは、秩父の山々を源流とする荒川の本流でした。そんな大河であったこともあり、隅田川は武蔵国と下総国を分ける境界線だったのです。両方の国をまたぐ橋ということで、「両国橋」となったわけです。

 この荒川については実は少し説明が必要です。江戸城からは横道にそれますが、江戸城建設と並ぶ、あるいはそれ以上の江戸の大土木工事の話になりますのでお聞きください。

東京湾から太平洋に流れを変えられた利根川
岩渕水門
現在の岩渕水門。右奥が隅田川、左が荒川放水路。
 今、関東最大の大河である利根川は、渡良瀬川や鬼怒川を合わせて千葉県の銚子で太平洋に注いでいます。しかし家康が関東に入府した頃は、利根川は荒川と合流して東京湾に注いでいました。渡良瀬川も東京湾に注いでおり、現在の江戸川のあたりを流れていました。隅田川の上流は荒川とはつながっておらず、現在は荒川の支流となっている入間川が源流でした。

 これらの大河がひしめく武蔵国東部(埼玉県東部から東京東部)は、大雨のたびに洪水となり、川の流路が変わり、開発の進まない低湿地帯だったのです。ここが稲作地帯になれば、徳川領の生産力は飛躍的に高まることが期待されました。

 そのため家康は、これらの河川の流路を整理し、洪水を防ぐと同時に利根川と渡良瀬川を鬼怒川につないで太平洋と結び、東北地方からの舟運の便を図ることを計画しました。

 この大工事は数多くの工事の集合体とでもいうべきもので、関東平野一円にわたって行われました。1594年に始まり、1654年には一段落しましたが、最終的には明治まで引き続き行われるという気の遠くなる規模のものでした。

 工事の結果、荒川は利根川から分離されて入間川と合流し、かつての湿地帯の西の端を流れるようになり、利根川の流れは整理されて湿地帯の東を流れるようになりました。武蔵国の平野の真ん中を貫いていた暴れ川を、東西の端に押し込めたわけです。

 また利根川の途中を鬼怒川と結び、東北地方からの船が、房総半島を回ることなく安全に江戸に行くことができるようにしました。工事の目的のかなりの部分はここにあったともいわれます。

 さらにこれらの工事によって関東平野の真ん中を利根川という大河が横切ることになり、東北から江戸へ攻め込む敵への巨大な障壁になりました。いわば江戸城の大外堀ができたたわけです。

両国橋
現在の両国橋。1932年完成と80年近くたっている。
 江戸時代の後半からは、利根川の流れのかなりの部分が太平洋に流れるようになり、明治になって利根川の本流は千葉と茨城の間にまとまりました。

 しかし一方で、隅田川最下流の江戸の下町は、荒川、入間川の水が流れ込んだため洪水が多く、小名木川、竪川、横川、仙台堀川、横十間川など数多くの掘割が舟運目的も兼ねて掘られ、排水対策が取られましたが、根本的な解決にならず、明治になって荒川放水路の工事につながりました。

 さて両国橋です。この橋は江戸城建設当初にはありませんでした。この場所に橋が造られたのは江戸の大火がきっかけでした。

振袖火事でできた両国橋と両国広小路
 その大火は「振袖火事」と呼ばれることの多い1657年(明暦3年)の明暦の大火です。江戸城天守閣はじめ江戸の街の6割が焼け、10万人が亡くなったと言います。火元の一つが本郷の本妙寺でしたが、その原因は、恋の怨念のついた振袖を焼こうとした際、突風が吹いて振袖が本堂に入り燃え上がったため、という伝説があります。

 それまで隅田川には、日光街道が隅田川を渡る場所に千住大橋が架けられていただけで、それより下流には橋がありませんでした。江戸城の防備のためだったと言われています。しかし明暦の大火の際、火事に追われた神田川南側の人たちは隅田川河畔までたどり着いたものの、渡る橋がなかったため逃げ場所がなく焼け死んだ者が数限りなかった、といいます。

 このため幕府も火災後はこの場所に橋を架けることを決め、できたのが両国橋です。また江戸の街を広げるために、大火後に対岸の深川地区の開発が進められましたが、そのための交通路としても重要でした。当初は「大橋」という名でしたが、新大橋ができてから、「両国橋」が正式名称になりました。実は両国橋ができる少し前に、武蔵と下総の国境はもっと下総寄りの江戸川に変わっており、すでに「両国」橋ではなかったのですが、俗称がそのまま正式名称になってしまいました。

(黒田 涼)

 
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