自宅浪人だったのだ。サンプラザ中野だー!
かくして79年の4月から浪人に突入した。予備校に通うのが面倒なので、自宅浪人「宅浪」となることにした。生活が一変した。何しろ人と会わない。家人ともほとんど会話はない。ひたすらこもって雌伏の日を送ったのである。
その頃、海外では新しいロックがはやっていた。それはパンクだ。セックス・ピストルズが火付け役だった、らしい。らしい、というのは洋楽には疎かったから。それが証拠に79年の時点ではピストルズは既に解散していたし。
もう一つ新しい流れがあった。それはニューウエーブである。こちらにはハマった。78年にデビューしたアメリカのDEVO(ディーボ)というバンドが大好きだった。自らを「進化する代わりに退化した人類」と定義づけてのパフォーマンスであった。ストーンズの「サティスファクション」(65年)を軽い音でカバーしていた。軽いのだが衝動を感じた。それは多分、本家の曲がその時代の若者に与えた衝撃・衝動を、手法を変えて伝えていたのであろう。
などと理屈をこね出してみたのは、この頃聞き出したFMラジオの影響だ。NHK―FMで音楽評論家・渋谷陽一氏の番組をよく聴いた。DEVOを知ったのもこの番組だったと思う。渋谷氏はロックのロックたる概念を日本に布教した人物だと思う。尊敬しており、後に大変お世話にもなる。でも、このころの俺(おれ)は歌手になろうとも思っていなかった。ただ、彼女に振られたのが悔しくて勉強に励む浪人生なのであった。
とにかく音楽は心の救いだった。サザンオールスターズの「いとしのエリー」に泣かされた。さだまさしの「関白宣言」に笑わされた。ロス・インディオス&シルビアの「別れても好きな人」にうなずかされた。そして甲斐バンドの「安奈」に号泣し、バラクーダーの「日本全国酒飲み音頭」に酔っていた。そんな19歳なのであった。
| <サンプラザ中野 プロフィール>
1960年生まれ、山梨県出身。47歳。84年に爆風スランプのボーカルでデビュー。7月からソロ活動を開始。
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