「しあわせのかおり」という映画の撮影で金沢に1カ月ほど滞在した折に、茶陶大樋(おおひ)焼の大樋美術館を訪れる機会を得た。
れんこん田の軟らかい土を手びねりで成形し、赤松の割り木を燃料に素焼きした後、鉄分を多く含む飴釉(あめゆう)でつややかな黄褐色に仕上げる大樋焼は、加賀前田家の庇護(ひご)のもと受け継がれ、今日も楽焼に次ぐ茶陶として親しまれている。
浅野川の近く、大樋家の敷地内に建造された美術館では、当代の大樋長左衛門氏の案内により、330年前のものだという初代の作品をはじめ、大樋家の系譜とも言えるお茶碗(ちゃわん)の数々を拝見することに。
歴史に寄り添うように作られた作品の数々は、いずれもその時代の重みを背負いながら、どこか自由で生き生きとして見える。
左右非対称な聖(ひじり)茶碗や、川海老(えび)を配した水指、そして五代長左衛門の作だという中州に亀をあしらった香合など、しかめ面で吟味するのではなく、ほほ笑ましく眺める余地のある遊び心たっぷりの作品が目に付く。
「『用即美』と、工芸の世界では謳(うた)われていますが、私は『美即用』だと思うんですよ」という氏の言葉に、うなずくよりもまず、ため息がもれた。
手工芸が貴重ではなかった故柳宗悦の時代には、「用即美」を唱えて然(しか)りだったのかもしれないけれど、機能や生産能率を重視するあまり、美しさに欠ける建造物や日用品があふれる現代には、「美即用」を掲げて程よいのかもしれない。
とはいえ何をもって美と称するかは、個人の価値観によるところが大きく、正解はどこにもない。
「どんなにいい作品でも好き嫌いを押し付けるわけにはいかない」と、各々(おのおの)の感性を尊重し、「形あるものは壊れる」と、ご自身の作品を飾っておくよりは使用することを勧める大樋氏の言葉に懐の大きさを感じた。
私自身、アートを真に理解するには及ばぬけれど、個人的な好みや思い入れで作品を愛(め)でるだけでいいのかもしれないと思い始めている。