人並みに敬愛してやまない画家はいるけれど、真贋(しんがん)を問わず絵画を自室に掲示することは望まない。作者の主張や魂の叫びを受け止める強さと柔軟性に欠けるからだろう。
しかし、とある場所で見て以来、どうしても我が身に引き寄せたいとの欲望を掻(か)き立てる絵がある。それは、中井亮氏という模様悉皆(しっかい)屋さんによって生み出された京友禅の栗の絵だった。
模様悉皆とは、着物をデザインし、下絵を描き、色挿しや地色の染め出し、金彩銀彩の案配や刺繍(ししゅう)の施し具合などすべてを司(つかさど)り、職人を統括するという、オーケストラにおける指揮者のような存在らしい。
遠目には白かと見まがうような淡い地色に、軟らかく消え入りそうな線で枝を表現し、はらはらと落ちていく寸前の葉、そして金彩がわずかに挿された毬(いが)の割れ目から覗(のぞ)き見える栗を描いた付け下げは、絢爛(けんらん)豪華な着物とは異なり、静けさをたたえていた。
個性豊かで、時に人格者とは程遠い職人たちの得意とするところを見いだし、言葉では表現しきれない感性の領域を分かち合いながら、質の向上に尽力する中井氏は、広げた瞬間に称賛を集め、人を熱狂させる観賞用の作品作りとは一線を画し、身に着けるための着物を作り続ける。
下絵だけでも3人の職人を要し、金彩銀彩で覆い隠せばごまかせる輪郭を丁寧に描くからこそ、光りを抑えた控えめな表現が可能なことなど、大変な工程についての説明をあえて慎むことも。それゆえ微妙な色合いと繊細な線を「地味」のひとことで片付けられてしまうことも少なくない。「口で申し上げなくても感じてくださる方に着ていただけたら」という口調はあくまでも柔らかく、しかし、本質で勝負する者の矜持(きょうじ)をもった瞳に迷いは感じられなかった。
大げさなパフォーマンスの時代に、内面へそっと語りかけてくるような静かで奥行きのある作品が表現の可能性を新たに指し示してくれたようで、焦ったり無理をしたりするよりはじっくり機が熟すのを待ってみようかと思う晩秋であった。