西洋の絵にはだいたい好きなものはあまりない。セザンヌの風景や人物のようなものは別として、暗い宗教画や、よくある残酷な戦いの絵を見るとげんなりする。そこにいくと東洋の絵、とくに水墨画などは、自然と人物が混然一体の境地をかもし出していて想像力をかきたてられ、心をいやしてくれる。
古今東西の画家の中で、私が右に出るものはないとひとり思い込んでいるのは、中国、宋時代の梁楷(りょうかい)だ。牧谿(もっけい)や因陀羅(いんだら)なども好きだし、また上記のセザンヌや大雅なども好きだが、八大山人や雪舟、若冲などになると、どうも描きこみすぎていて、いまひとつ興趣がわかない。
梁楷の画は、「六祖截竹(りくそせっちく)図」や「李白吟行図」あるいは「出山釈迦図」や「鶏骨図」「寒山拾得図」など、どれもその境地の高さ、純粋さを思わずにはいられない。
竹を切っている六祖、踊りを踊っている布袋、そして彼が愛誦(あいしょう)した李白……。梁楷が描く李白は、外界のことは一切放念して心の内にわき起こる詩魂にすべてを奪われて歩いている。
全く無駄のない墨の濃淡。これ以上力強くは描けない。彼の画に余計な説明はない。梁楷はその姿を李白その人になりきって描いている。彼は彼が描いた人物と一緒に生き、深い安楽の境地に浸っている。上には上があるという言葉があるが、古今東西、セザンヌら数人をのぞけば、多くの画家はその到達した境地において、彼の足元にも及ばないのではないか。
さて、梁楷の絵を見ているうちに、私も水墨をどうしてもやってみたくなった。しかし筆をとってみると、はじめからわかっていたことであるが、省けば省くほど、描かなければ描かぬほど難しい。特に人物に至っては、作中の人物と同じぐらいの心境に達してなどということは夢のまた夢で、結局、いつも途中で筆を投げ出しては、梁楷の絵を前にして嘆息するのみである。