絵描きと云(い)うのは、まあ居職である。あまり出前と云うのはきかない。日がな家にこもって、黙々と筆を動かす。世間様はどう思っているのか知らないが、大家になるほど規則正しい生活をしている。情熱が赴けば、昼夜分かたず叫びながら描く、などと云うことはしない。其(そ)んなことをしていては一枚も仕上がらない。第一、身が持たない。だから判で押したような毎日を過ごす訳で、そうすると却(かえ)って判で押した以外の移ろいが見えてくる。其う云う所からまた次の絵が生まれたりもする。
しかし単調な毎日なので、気が萎(な)えぬ工夫をせねばならない。僕の場合、工夫とも云えないが、晩酌が其れであろうか。黄金色がかった冷えたのをキュッとやれば、ああ旨(うま)い、頑張ろうと云う気になる。簡単だ。
昔の絵描きも其此(そこ)の所は同じだったようで、色々と逸話が残っている。画聖と呼ばれた雪舟からしてそうだ。しかも御大、描く前に飲む。大酔してやおら筆をとり、瞬く間に描き上げるらしい。酒が飲める上に絵も仕上がる……実に素敵(すてき)だ。労働者の福利と生産性の向上が、見事に両立されている。画聖恐るべし。
実際、酔って描きかけの絵に手を入れたことがある。出掛ける前の呻吟(しんぎん)が嘘(うそ)のように画想が沸き、筆が走った。走ったがしかし、翌朝見返して頭を抱えた。どうにも不味(まず)い、手癖のみで描いたような痩(や)せた絵がそこに在った。
酒というのはどうも、人の皮や肉を取り去って、ガラをむき出しにするような所がある。直に骨に響くから、詰まらぬ話で笑い、些細(ささい)なことに怒る。取るに足らぬ画想も天啓と錯覚する。其の代わり直だから、逡巡(しゅんじゅん)は消えて手だけは早くなる。
酔って描いたものが、絵になっていると云うのは尋常ならざる骨の太さだ。並の者ではダシもとれない。酒を飲んで骨密度が上がると云う話は聞かないから、やはり素面(しらふ)の時の精進がものを云うのだろう。当分酒は気養いの晩酌程度に留めざるを得ない。いや、待てよ。酔拳なんて云うのもあるから、やっぱり酒で……。