正月、上州に帰省すると、今年も祖母の話が炸裂(さくれつ)である。別段まくし立てると云(い)うのではないが、女一代記が滔々(とうとう)と語られる。年年で筋立てや演出が一寸(ちょっと)ずつ違い、ちょうど右太衛門(うたえもん)と千恵蔵が代わり番こにやる忠臣蔵みたいだ。キャッチフレーズみたいなのもあって、今年は「百歳の峠が見えてきた」が、効果的にリフレインされた。
毎日のこととて辟易(へきえき)している母があれこれ茶々を入れるのを、耳の遠さを活(い)かして片っ端から無視してゆく。私など正月の楽しみとして聴いているが、どうも祖母殿そうとう吹いているらしい。まるっきり嘘(うそ)ではないにしろ、苦楽がより極端に表現される傾向にあるようだ。確かに私が小学生の頃、祖母がテレビ局の取材を受けたのを覚えているが、今回はそれが群馬テレビからNHKへと修正されていた。母の成績が「一番」で「答辞を読んだ」なんて云うのは「お母さん違うわよ、悪か無いけど一番じゃないの、それに答辞じゃなくて送辞!」だそうだ。どっちだっていいじゃないか。
そんなことよりも面白いのは、そうした脚色が祖母の実感の表現となっている点だ。祖母は別に正確な事実とやらを話したいわけじゃない。自分の抱いた感慨を伝えたいのだ。だから僕らの頭の中に其(そ)の感慨が像を結ぶよう、事実の方をちょいと調整したわけだ。
事実云々(うんぬん)と書いてきたが、むき出しの事実なんてものは、其此(そこ)らに転がってやしない。誰かが実感を持って「そう見た」ものがあるばかりだ。賛同者が多ければ真理なんぞになり、少なければ妄想となる。世界は其んな「見方」で出来ている。実感の無い所に実を見ず、其のかわり実感さえ沸けば実が無くとも其れを見る。だから詐欺なんてことも成り立つ。
紙っぺらに描いたものを、花だ美女だと言ってのける絵描きなんて商売も、かなり詐欺師寄りだ。ただ、紙の上に嘘(うそ)八百を描きつつも、観(み)る者の胸の中には「ほんとう」が像を結ぶよう四苦八苦している点、少しはマシか。