昨年は花山法皇一千年御遠忌に当たるというので、花山院が再興され根づかされた西国三十三所の寺々に伝わる秘仏を、これから10年5月まで順次御開帳するということになった。お陰で、一般の衆生もめったにない功徳に恵まれた。
秘仏というのは、インドにも中国にも韓国にもない習慣だそうで、日本だけになぜこの風習があるのか、気にかかりながらまだそのわけを浅学の私はつきとめていない。
何にしても秘すれば花という世阿弥の有名なことばもあるように、露(あら)わでないものほど床(ゆか)しがるのは、日本人の通念のようだ。
大切なものほど幾重にも包みこんで護(まも)りたくなる。王朝の貴族の姫たちは、深窓にかくして、男兄弟の目にさえ触れさせないように育てられている。まして人間が崇(あが)めあこがれるみ仏のお姿を刻んだり描いたりしたものは、尊くて、簡単に拝めないようにした気持ちもうなずける。何(いず)れにしろ、そうして何百年も、何千年もの歳月、寺々で護りぬいてきた秘仏は、人々の憧(あこが)れをより強くそそのかしてきた。
今度の御開帳で、私は3月、滋賀県・大津市の石山寺の御本尊如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)の御開扉に参拝して、恭しい法要の中で開かれた秘仏を拝することが出来た。重い扉の中から秘仏の観音様が現れた時、参拝客の中から思わず熱いため息がもれ、空気が声をなして揺れた。予想より大きな観音様は、豊かな、温かなお顔で私たちを見下ろしていらっしゃった。
仏像はどれほどの名人の手に成っても、拝まれないうちは、一箇(いっこ)の美術品か、芸術作品である。人々に拝まれるにつれ、人間の作った像の中に霊性が宿り育ち、仏としての霊力が育ってくる。一千年の歳月、どれほど無数の祈りを受けて来られたかしれない観世音を仰ぎながら、こみあげる感動を抑えかねていた。