流政之さんは、今では世界的に評価された美術造形作家だが、60年前は戦後の京都で紙製品の会社を造り、そこの専務になっていた。
人気叙情画家のデザインを使った流便箋(びんせん)と封筒が飛ぶように売れて利益をあげていた。
ところが一緒に造ったもう一つの会社が売れない本ばかり出す出版社で、流さんの稼いだ金をすっかり使いこんでしまった。たちまち二つの会社は共倒れした。
その出版社に、戦後、家庭を飛びだした私が転がりこみ編集者を務めたので、流さんと識(し)りあった。
私より一歳若かった流さんは、海軍特攻兵の軍服に、純白のマフラーを小粋になびかせ、見るからに颯爽(さっそう)とした美男子で美丈夫だった。流さんが河原町を歩くと、いつの間にか若い娘たちが、ぞろぞろその背後に列をなして、あたかも一遍上人の再来のような有り様になった。
当時、彼は絵も描いていて、将来は画家になるのだろうと私は思っていた。
立命館大学の創始者・中川小十郎氏を父として生まれた流さんは、あえて父とは違う道を選んで芸術家を志した。
会社がつぶれ2年すぎて、私たちは東京の西荻窪の質屋の前で偶然再会した。流さんはもうオブジェ作家としての方向が定まっていたが、まだ世に認められてはいなかった。私も作家の卵のつもりだったが、まだどこの雑誌にも載っていない。閑だけはたっぷりあるふたりは毎日のように私の下宿の縁側で喋(しゃべ)りあい、自分の天才を認めない世間の無知をののしって留飲を下げていた。
やがてアメリカに渡り、ユニークな作品で認められた流さんは、帰ってきた時、もう世界的な造形作家になっていた。香川県の庵治(あじ)町の瀬戸内海に面したアトリエで86歳の今も、旺盛に作品を産みつづけている。60年の友情のおかげで、この4月22日、私の故郷の徳島市に、流さん作の文学記念碑が建てられることになっている。