夫が戦争に出かけている間に妻はお産で死んでしまった。だが彼女は幽霊になっても幼子を育て続け、夫を待った。やがて夫は戻ってくる。村人たちは怪訝(けげん)な顔をした。妻が幽霊だと知った夫はただちに寺に駆け込み、和尚さんに相談した。和尚は、怒って村中に災難をもたらそうとする妻を宥(なだ)め、夫婦は別れることに同意した。夫は人生のはかなさを知り仏門に入ると、後に高名な僧侶となった。
いったいどこの国の話だろうとお考えの人がいるかもしれない。前半はなんとなく「雨月物語」のようだ。途中から「白蛇伝」や「牡丹燈籠(ぼたんとうろう)」にも似てくる。まあ江戸時代にはありそうな話だなあ、という感想がふつうだろう。
ところがこれは「プラカノン運河のナーク夫人」という、国民的怪談とも呼ばれているタイの物語なのだ。20回以上映画化され、最近ではオペラにまでなっている。しかも多くのタイ人はこれが19世紀にあった実話だと信じている。現にバンコクには夫人を祭ったお堂まであって、安産の神様として女性の参詣(さんけい)客が絶えない。
10年ほど前に「ナンナーク」という怪奇映画でこの物語を知った時、わたしは感激した。日本とタイにほとんど同じようなお化け話があり、それが映画となって親しまれているという事実を突き詰めていけば、そこに国境や民族を越えてアジアの芸能文化を総括して見ることのできる場所が見つかるのではないかと考えたのである。
そこでただちにバンコクに行き、ジャカルタに行き、クアラルンプールに行った。どの場所でも怪奇映画は大人気であり、いくらでもあった。しかもバンコクの若者は「ゲゲゲの鬼太郎」も「リング」も、ちゃんと知っているではないか。このたび「怪奇映画天国アジア」という本を出すことになったのは、こうした8年にわたる調査の結果だ。まこと幽霊には国境がないのである。