イタリア人は、テーブルの中央に旬の果実を盛るのが好きだ。そして、それがまるでカラヴァッジョの静物画ででもあるかのように飽かず眺める。これがうつって、わが家でもよく果物や野菜を盛ってみる。そこで気づいたのだが、近頃の日本の野菜や果物は、形も色も整い過ぎなのだ。赤から黄に変容しかけた扇情的なピーマンやら、虫喰(むしく)いのあるデカダンなリンゴといったものに、お目にかかれない。
気がつけばこの10年ほど、食関係の仕事が多い。美術史を勉強して、なぜ食を?と問う人もいるが、私の中では両者の間に線の引きようがない。日本の無農薬や在来の野菜、天然魚に惹(ひ)かれたのは単に食いしん坊だからであるが、ますますのめりこむ理由は、味もさることながら、惚(ほ)れぼれするほど美しいからではないかと思う。
山形県米沢市に、出荷農家が19軒の雪菜という在来野菜がある。これを雪から掘り出した瞬間の初々しい黄緑色は、まさに冬のエルミタージュ美術館でゴッホの描く緑を目にした時の感動だった。秋田県で漁師たちが獲(と)ったハタハタを眺めた時にも、その表皮は虹色につやめき、レンブラントの肖像画を思い起こさせた。
つくづくと眺めて飽きない食べ物は味わいも深いが、手間がかかるから、安くなんて無理な話だ。絶滅危惧(きぐ)なのは、安ければ安い食材こそ救世主という考えに押され気味の食べる側の美意識なのかもしれない。
在来種の動植物を描いていた江戸時代の若冲がもし現代に生きていたら、近頃の鶏は絵になりませんなと南方にでも移住したか、絵になる鶏の保存に乗り出したことだろう。なぜこうもつるりと同じ顔の食べ物ばかりで平気なのか、絵手紙がこれほど流行(はや)っているのに不思議なことである。