この春、パリの市立近代美術館でジョルジュ・デ・キリコの回顧展が開かれた。そこで君を思い出したと、ほぼ20年ぶりにパリの友人から便りが舞い込んだ。思い起こせば、その頃の私は、寝ても覚めてもデ・キリコだった。
パリのシュールレアリストとも深い交流のあったイタリアの画家だ。その名を知らなくても、緑の空を背に立つ顔のないマネキンの、夢の断片のような絵を覚えている人は多いだろう。その頃、東京・上野の芸大に通う学生だった私は、将来の方向も定まらず、体調も崩し、憔悴(しょうすい)しきっていた。そんな時、デ・キリコの「予言者の報酬」という絵に出会った。遠くには、緑の空に蒸気をたなびかせて走り去る機関車、暗いアーチの手前の広場には、眠るアリアドネーの彫像。背後から差し込む午後の日差し、長い影。ヴァチカン美術館にあったこの古代彫刻の、胸元も露(あら)わに眠る女は、ギリシャ神話に登場するクレタ島のミノス王の姫だ。糸玉を渡し、テセウスがミノタウロスを倒して迷宮から脱するのを助ける。それが有名なアリアドネーの糸。だが、これには悲惨な後日譚がある。彼女は、ナクソス島で眠っているうちに、テセウスにそっと逃げられてしまうのだ。
大いなる人生の謎解き。画家が描きたかったのは、その鍵となりながら、自らに迫る不幸も知らず、惰眠をむさぼる女の滑稽(こっけい)さなのか。しかし、別の伝説は、絶望のアリアドネーは、その後、半神ディオニソスと結ばれたとも伝える。絵の中の地平に満ちるかすかな光は、悲嘆の末の新たな旅立ちを暗示しているようでもある。このむしろ憂鬱(ゆううつ)な絵を、飽かず眺めるうちに、私の中で何かがふっ切れた。
以来、私は、落胆や悲しみや欺瞞(ぎまん)から、魂を再生へと導くものこそ、美の術である、という強い思い込みから抜け出せないでいる。だから、病院と美術がコラボしないのも、不思議で仕方がない。ただし、脅かそうが、擽(くすぐ)ろうが、突き放そうが、手段は一切、問わない。