もし、電線ノイローゼという病状がこの世に存在するならば、私はその初期症状である。住宅地の空を覆うもつれそうな電線と、地盤が悪いのか傾いていたりする電信柱を見ているだけで、心までどんよりとしてくる。人間、いずれどんなものにでも慣れるものですよ、と慰めてくれる人もいるが、厭(いや)なものは厭なのであって仕方がない。こんな美しくないものをむざむざ放置しておきながら、未来の都市空間を論じたり、美術展など開いたりしても意味がない、と荒くれたくなる時もある。電気を使いながら大層な言い草だとは思うし、自分でも少し病的だとはわかっているが、どうしようもないのである。
ところが、そんな東京の空にも、お天道様は、時折、せいせいするような壮大な夕空を演出して、慰めてくれることがある。昨年も、ある日空が燃え上がるような夕焼けに出会った。見渡すと、反対側の空にはまだ紫の雨雲が垂れこめ、雲の切れかかるところに虹がかかっている。九ちゃんのように「上を向いて歩こう」と、うつむいたまま道行く人に声をかけてまわりたい衝動に駆られた。
かろうじてこれを堪えていると、女の子が隣の彼に「うわっ、これ、やばくね」とつぶやき、携帯でシャカッと写真に収めた。そのことさえも微笑(ほほえ)ましく思えるほどの空。美は、人をかくも寛大にする。
歩くほどに、色彩は刻々と塗りかえられ、曲がり角を過ぎると、わが家へと続く、普段はげっそりするような電信柱と電線までが、大がかりなインスタレーションに変容しているではないか。パリのポン・ヌフを布で覆ったアーティストのクリストも顔負けの傑作だ、と小躍りした。
だが、美はうつろい易(やす)きもの。逃げるように夕日は沈み、わずか数分ほどの熱狂の後には、壮大なインスタレーションの残像もかき消え、やはり、どう眺めても美しくない電線だけが、私に残された。
美よ、万物に宿れかし。