日常的な「身体表現」の一つに「言葉」があります。息を吸い、喉(のど)を通って当たり前のように発せられる言葉ですが、私たちは普段、その文字の意味以上のものを自然に感知しながら生きていると思います。
例えば、誰かに謝られる時。「ごめんなさい」「…ゴメン」「申し訳ございません」。言葉上は色々な謝罪があるけれど、伝わってくる時とそうでない時がある。それは、相手が本当にそう思っているかどうかを感知できるから。いくら言葉は丁寧でも、相手への想(おも)いを込めた言葉かどうかはすぐわかってしまう。それは言葉の「響き」の中に、感情がこもるからではないでしょうか。なかなかごまかしがきかないことだと思います。
赤い花のことを話す時、ただ「赤い花」と平たく言ったときと、好きな人にもらった一輪の赤いバラを頭に描きながら言うときとでは、同じ言葉でも違った響きになるに違いなく、後者の言葉にはちょっとした感情の揺れや甘い響きの含みが表れるはずです。
言葉には、その意味とは別のところに響きがあり、その人の想いやイマジネーションと直結している。想像しているものが、響きとなって表に出てくる。それが表現なのではないかと思っています。
私自身、歌と向き合うときはその「響き」を一番大切にしています。極端なことを言うと、響きがあれば言葉は必要ない、というところまでいきたい。歌にはそこまで可能性がある気がするのです。言語のなかった時代にも歌は存在したはず。もちろん歌詞はとても大事で、想いを伝える重要な手段なのですが、私自身は、どちらかというと身体表現という観点から歌を捉(とら)えています。
ただ声を発しただけで想いが伝わればそれが究極の「歌」なのかもしれない、と。その息づかいの中に、願いや愛や祈りをどれだけ込められるか。そこに近づきたいと、私はいつも思うのです。