日本と西洋の家具を研究している小泉和子さんから300年ほど前の文机の写真を見せてもらった。天板と左右の側板のたった3枚の板だけで作られたじつに簡素な文机である。まったくの白木造りで、天板の両端だけが少し湾曲し、筆が転がり落ちないようになっている。天板の厚さよりも側板の厚さがわずかに薄く、その違いが安定感と軽やかさを生みだしている。正座した両脚を受けいれる文机の高さと幅、それに奥行きは、秋の夜長、背筋を伸ばして机上におかれた書を読みふける、紺絣(こんがすり)の着物を着た壮年男子を彷彿(ほうふつ)とさせる。
この文机にふさわしい空間とは、畳の部屋、それも望ましくは縁側のある8畳ほどの部屋で、雪見障子と半間でもよい、床の間があれば理想的である。床の間に違い棚をしつらえるほどの余裕がなくとも、朝鮮王朝時代の青磁の色合いをもつ一輪挿しを、文机から見える隅に置きたくなる。
おそらくこれほど簡潔端正な部屋を、現代の住宅につくることはよほどの覚悟が必要であろう。まして、正座の不得手な私にとっては、文机を文机として使うことさえできないので、秋の山野草をいれた水差しを置く台に転用するしかないだろうか。それでも、ミズヒキやワレモコウ、ツリフネソウなどを投げこみ、最後にすくっと立ち上がったススキを何本かさせば、文机も満足してくれるのではないか、と勝手な想像をしている。
しかし、そんなコーナーをたとえばイギリスのフラットに設けることは可能だろうか。世界中の美術や文化に目を配り、「いいとこどり」の天才であるイギリス人にしても、かなり難しいはずである。40年以上フランスやイタリアの美術品を見てきた私にとっても、文机がもつ無垢(むく)な美しさと凜(りん)とした端正さは、西洋の濃い生活空間の調度品とは大きく異なる何かがあると感じる。それは純粋主義とでもいうべき突きつめた形の純化か、それとも草の香りがする民族的な造形感覚からきているのだろうか。