ベランダにはマツリカが2鉢ある。なぜ同じ種の植物が複数あるのか、その理由がとんと思い出せない。
俺(おれ)は日照りや長雨やアブラムシと戦うのと同量の、またはそれ以上の情熱を持って、日々『面積』と戦っている。したがって、よほど気に入った草花でない限り、同じ種類の鉢など増やすわけがないのである。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
記憶力に大きな問題を抱える俺が推測するに、どうも一度マツリカを枯らしかけた可能性がある。で、どこかの店先で元気に咲く第二のマツリカを見つけた。
即座に購入して帰ったものの、俺は枯れかけた方のマツリカが不憫(ふびん)になって捨てられず、なんとなく水などやってお茶をにごしていた。するとその第一のマツリカがしわしわの幹から薄緑の芽を出し、復活した。
そうだ。間違いなくそうだ。これはベランダーによくある『不幸のパターン』だからである。捨てようと思った鉢に少しでも未練を残したら最後、介護の毎日が始まり、その欲求不満がたたって、よせばいいのに同種の鉢を買ってしまう。
俺は見事にその『不幸のパターン』にはまり、狭いベランダで複数のマツリカを育てるはめにおちいっているわけである。
だが、今はいいのだ。東向きベランダでも、北向きベランダでも(たぶん第一のマツリカはこちらだ。条件の悪い方に介護の鉢を置くのは俺の習性である)、やつらは毎朝、紫色の花を開かせてくれる。5弁の花は、翌日には真っ白に変化する。つまり色褪(あ)せる。
洗剤の過大広告でも見ているかのように、それはそれは見事に色素が消え去るのである。潮が引いていくように、あるいは恥ずかしさで赤くなった顔がすっと元に戻るように。
次に開いた紫の花と、前日まで紫だった白い花。二つの色が入り交じったマツリカはつまり、容赦なく過ぎていく時間を一瞬に閉じこめている。同じ配列は、その日その時にしか見られないからだ。
そのはかなさに耐えられず、俺は起きるとすぐにベランダに行く。何かというとマツリカを見る。
しかしながら、本当のはかなさは花が終わった時に訪れる。俺はまた長い時間をかけて、二つの鉢をせっせと世話するのだ。
次に来る花期のため、ただそれだけのために。