タイに行くと、家々の前や道端に小さな社(やしろ)が立ち並んでいるのを目にするだろう。派手な色の社の数々。
タイ人はそこに“ピー”を祀(まつ)っている。ピーは一般に精霊と訳されているのだが、ある時は祖先だったりその場所で事故にあって亡くなった人の霊だったり、仏教国でありながらヒンドゥー教由来の神だったりするから、実態は複雑だ。
それはともかく、タイ好きの俺(おれ)はそのピーの社と、それを祀る人々の気持ちに心ひかれ続けてきた。で、今年、お社を買って来た。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
本物はコンクリート製であまりに重く、また同じくコンクリ製の角柱の上に乗せるのが習わしだから結局あきらめざるを得ず、よく似た木製の物にした。
中に、これまでみやげでもらったアジア各地の神像やらブッダ像を入れたのだが、それだけではどうも盛り上がらない。
かといって、タイ人のように毎朝小皿に食べ物を供えるほどの信心もない。
俺はつまり、何か自分を超えた大きなものに手を合わせる謙遜(けんそん)の気持ちを必要としているだけだ。
ふと気づくと、俺は咲いた花を思いついた時に供えるようになっていた。事実タイ人もまた、花で作った輪っかをピーの社に掛ける習慣がある。無意識に俺はその真似(まね)をしていたのだ。
すると、花が生贄(いけにえ)であることに思いあたった。豚とか鳥などを殺して供えるかわりに、人は花を供える。それは血を流すことのかわりであり、生きている者の命を絶つ行為のかわりだと俺は体で理解したわけだ。
だがそれも、酷(むご)いことに変わりはない。特にベランダーたる俺にとって、咲いた花を摘むことは命を絶つことである。だが、そうでなければ、大きな自然に手を合わせる意味がない。生贄を捧(ささ)げる自分の身勝手さを、痛みとして知らなければ何にもならない。
信心のない俺はこうして遠い国タイの社の前に、わざとハサミも使わずに花を摘みとって供えているのである。プチッと音がして心が痛む。痛む分だけ、なんだか真剣に手を合わせる。
花は生贄である。だが、それはより平和な生贄である。犠牲を最小限にとどめようとする人類の知恵が花を摘むことなのだ、と俺は今日も思い知る。