1月咲きの鉢を増やしていくと、認めたくなかった事実が迫ってくる。
枯れるにまかせ、ひたすら様子を見ていた数々の鉢に、俺(おれ)はとうとう別れを告げなければならないのだ。ベランダの面積上、そうしないと新しい鉢が置けないからである。
春になれば復活する、と根拠なく思い込んできた日々。だが、もちろん理性は知っている。確かめるのが怖かっただけで、それら沈黙を続ける鉢はすでに生命活動を終えているのだ。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
ヒイラギは葉を落としたままトゲを茶色く硬化させて久しいし、ボタンは乾いて黒ずみ、どこにも芽をつけていない。ライムもまた丸裸で数カ月放置されており、実をつけていた1年前の冬の雄姿はない。ブロッコリーと同じプランターに植え込まれたシソにいたっては、真っ黒く変色していて壊滅状態である。
さらに数鉢の枯れきった植物がベランダに並んでいるのだが、お恥ずかしいことにそれが何であったかさえ、俺は思い出せない。
それでもこれまでは水を少量ずつやってきたのである。根が生きていれば必ず息を吹き返すと信じ、長い鉢で半年以上は世話をしてきた。土を湿らせるだけの行為を、俺はじっと繰り返し続けたのだ。愚かにも。
枯れ木に花を咲かせましょう、と花咲じいさんは言う。昔の人は、あの民話をもっと切実に受け止めていただろう。作物と人間が密接だった時代、死んだ植物を蘇(よみがえ)らせるじいさんの魔術こそが憧(あこが)れのまとだった。
現代のベランダーたる俺も憧れる。というか、自分が花咲じいさんである可能性を捨てられずに、俺は実際死んだ植物に水をやり続けてきたのであった。
したがって、1月咲きの鉢のために他の植物の死を認めざるを得ないのは、大きな挫折体験である。自分に魔術が使えない事実をまざまざと認識し、ただの人として重ねてきた労働が無駄だったと知るのだから。
冷えたベランダにしゃがみ込み、力及ばず死に至らしめてしまった植物の残骸(ざんがい)をゴミ袋に詰めていく。
脇に並べた1月咲きの花々がなければ、俺はその失意に耐えられない。いや、おそらく失意に立ち向かうためにこそ、俺は新しい生命を買い込んできたのだ。