このエッセーの正式タイトルは『自己流園芸ベランダ派』である。さらに正確を期せば『いとうせいこうの自己流園芸ベランダ派』ということになる。だが、いただくお便りの宛名(あてな)が合っていたことはまずない。
責任はすべて俺(おれ)にある。覚えやすそうに見えて、実はちょっと七面倒なタイトルなのだ。知っている言葉しか連なっていないのに、順番に混同をきたす。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
最も多いのが、「園芸ベランダ派」である。物事の核心を短く突いた宛名だ。「自己流」などという自意識は無用! と読者に叱(しか)られている気がする。
次点に「ベランダ園芸」が来るのだが、これはいくらなんでもいささか端的である。というか、任されたものの大きさに俺は震撼(しんかん)せざるを得ない。せめて「ベランダ派」という小さな派閥で細々とやらせていただけないものか。
惜しいものに「自己流ベランダ園芸」がある。意味は完全に合っている。単語もほぼ全部入っている。ただ順番が違ってしまった。
何度も言うが、すべて俺の責任なのである。俺のひねり癖がこうした事態を招いているのであって、心優しい読者の皆さんには大変に申し訳がない。文面を読んで俺はいつでも勇気づけられているのである。宛名は違っているけれども。
さらに惜しいのは「自己流園芸ベランダー派」である。順番は完璧(かんぺき)だ。だが、あと一歩というところで1文字伸びてしまった。ベランダーたる俺の立場を汲(く)むあまり、つい伸びた。
……と色々書いてはきたものの、もちろんどんな宛名でもかまわないのだ。
そうした混乱が俺にはむしろ微笑(ほほえ)ましくうれしいからである。読者がみなあわてているのが手に取るようにわかるのだ。俺が書いたことを読み、急いで何かを書きたくなった。一刻も早く出したくて、宛名なんか二の次になる。
手紙を書く人は、今咲いている花、今育っている草の今を伝えたい。俺も同じだからよくわかる。そうした今を前にして、正しいタイトルなどどうでもいい。
何とでも呼んで下さい。忙しかったら、「派」でもOK。俺はその今をやりとり出来れば幸せこの上ありません。あ、こっちの梅は依然として今も順調です。