家の近くにあるデパート内の花屋で、「シャボン玉の木」と銘打たれた鉢が売られ続けていたのである。
売り場の札を読むと、樹液がシャボン玉状になるらしい。葉は芙蓉に似た感じで、あとはこれといった特徴がない。花が咲きそうな様子も皆無で、つまりどう見ても風采が上がらない。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
俺は見た瞬間からこれは売れないな、と思った。シャボン玉自体、衰退の一途をたどっているのである。あのふわふわと空を飛ぶ、はかない玉への思い入れを現代人は失っているのだ。
そんな世の中において、わざわざ石鹸使用を禁じ、樹液からシャボンをふくらませてみせようという奇特な人間はまずあるまい。
予想通り、木は日々ぽつねんと立ち尽くすばかりであった。今日は店先、少しすると店の奥、またしばらくたつと再び店先……と、1本のシャボン玉の木は寂しく移動を繰り返した。
店側としては、売れない理由を置き場のせいだと考えたらしい。シャボン玉そのものへの需要、もしくは樹液からそれを作る手間の面倒くささについては、目をつぶるつもりなのだ。
2週間ほど売れずに残っているシャボン玉の木を見るにつけ、俺は物悲しいような気分になった。自分もシャボン玉には興味がないのである。だがしかし、世の趨勢から落ちこぼれた鉢の姿が、俺には切なく映ってきたのであった。
買うとしたら俺しかないだろう、と思った。深夜になってふとシャボン玉の木のことを思い出すと、いてもたってもいられなくなるという日が続いた。今この時も、あのシャボン玉の木は売り場の隅にあり、誰の購買意欲をそそることもなく、また明日を終えるのかと思うと寂しくなった。
そういうわけで、俺は数日悩んだあげく、すっかり値も下がったシャボン玉の木を買った。一応、葉を根元から切り、垂れてくる樹液をストローにつけて吹いてみた。確かに一度はシャボン玉が出来たが、特にうれしくも何ともなかった。
石鹸でやった方が面白いに決まっていた。
シャボン玉が出来る以外に何の楽しみもない鉢だから、期待も展望もない。それでも俺は植え替えをし、丹念に水やりをしている。
輸入してしまった業者への静かな抗議のように、俺は今日も世話を続ける。