冬の退屈をしのぐために買っておいた福寿草が、親指くらいの蕾(つぼみ)の先を控えめに広げ出した。
手のひらで隠れそうな鉢の中央に、緑がかった黄色い花の前触れがある。
 |
| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
まだきっちりと畳まれていて、色もぼんやりとした花の先端は、世界への出現の機会をじっとうかがっているようで目が離せない。
咲いた花もいいが、その直前の状態もスリリングで魅力的なのである。命の力をため込んで、爆発寸前。一気呵成(かせい)に咲く瞬間を、こちらは心待ちにする。
福寿草は特にその寸前の期間が長いから、見ている方はじらされながら日々を暮らす。人間にたとえれば難産型である。そうたやすくは新しい生命が産まれない。蕾は静かにいきんでいるのである。
そして、根から栄養が行き渡り、大気が適切な温度になった途端、奇跡は起こる。そう、開花はいつでもひとつの奇跡であることを福寿草は教えてくれる。
だが、今はまだその時期ではない。うちのベランダの福寿草はいきんでいる最中である。夫たる俺(おれ)は周囲をおろおろとうろつき、変化はないかと息をひそめるばかりだ。
期待と心配に支配された夫の立場はともかく、割れた蕾の先からのぞいた黄色という色はよく目立つ。
そもそも冬のベランダはめっぽう寂しいから、色そのものの存在が珍しいのである。たとえ遠く離れていても、福寿草の黄色が必ず視界に飛び込んでくる。
爪(つめ)ほどの大きさもない黄色である。それが何をしていても目の端に映る。映る度にどきりとする。
色とはこれほど強烈な現象だったのか、と俺は認識を新たにせざるを得ない。
考えてみれば、虫も鳥も遠方からやって来て花や実を見つける。香り同様、色それ自体の力が彼らを呼び寄せるのだ。連中の不透明な視野の中に、一点華やかな色がきわだつ。緑色と土色しかないベランダならなおさらのことだ。
咲く一歩手前の小さな福寿草を前にして、俺はこのように難産だ色だとうるさく騒ぎ立てている。これが実際咲いたら、俺はさらにうるさいだろう。
すべては冬のせいだ。冬のベランダでは、ささいなことが一大事になる。