
撮影・政川慎治
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二、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る
狂言には「太郎冠者」という人物が登場します。ストレス社会と言われる現代において、いつでも欲望に素直に行動する彼の姿は滑稽(こっけい)であるとともに、魅力的に映るのではないでしょうか。観客は、自分の代わりにストレスを発散してくれる「太郎冠者」の姿を見て笑い、安心する。すなわち狂言の「笑い」とは、カタルシス(浄化作用)なのだと思います。
「北風と太陽」という話をご存じでしょうか。北風と太陽が、歩いている男のコートをどちらが先に脱がせられるか競争します。北風が冷たい風で無理にコートを吹き飛ばそうとするのに対して、太陽は暖かく照らし、男に自らコートを脱がせます。狂言の「笑い」とは、まさにお客様自らの何かを脱がせるものだと思います。そのような笑いを含め、狂言を「笑いの芸術」と評する方もいらっしゃいますが、「お笑い」とはどう違うのか。「お笑い」はニュース性を採り入れた即時的なものかと思いますが、狂言の「笑い」は普遍性を追求しています。人間誰しも生きていれば間違えもするし、失敗もする。自分自身にも思いあたることを客観的に見ると、おかしい。それが狂言の「笑い」であり、時代や文化を超える「人間讃歌(さんか)」の基本精神なのです。
しかし、伝統芸能だからと言って時代を無視し、守ってばかりでは廃れてしまいます。だからと言って「何でもやります!」という姿勢も、ちょっと違う。伝統とは過去から現在へ続き、未来へも伸びる線であるべきです。私は守るべきことと、変えなくてはならないことに直面したとき、どう対応するかを常に考えて行動しています。そして、変えると決めたときには「こうすれば、こういう効果が出る」という確信をもって挑みます。表現者としてのアイデンティティーと、伝統の担い手としてのバランス感覚がとても重要なのです。(談)
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