東京の南160キロに浮かぶ式根島。空路に海路、新島経由で、はるばるやって来た。が、野伏(のぶし)港を行き交う車はどれも品川ナンバー。そう、ここも東京なのだ。
周囲12キロの島には、火山の営みがそこかしこに色濃く残る。南端に近いリアス式海岸の絶壁に「秘湯地鉈(じなた)」の碑が見えた。
島へと心がなびいたのは、映画「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」を見た5年前。美保純扮するタコ社長の娘が、傷心の旅の果てにたどり着いたのが、ここ地鉈温泉だった。日の傾きかけた湯にそっと滑り込み、彼女の口からもれたのは「うわぁ天国ぅ」。
その湯船は磯に。岩壁にへばりつく150段の石段を、転げ落ちそうになりながら下りきる。切り立つ左右の壁が、青空に向かいV字を描いていた。「地鉈」の名は、大地を鉈で割ったようなこの地形に由来するという。そして海だ。深い群青の海。
湯船は、波打ち際の岩礁に点在する潮だまり。底から80度の源泉がわき、流れ込む海水と混ざり合い温度が下がる。入り時は日に2回、満潮の前後2時間ほどだ。
大小ある潮だまりを巡り、手を入れては適温の場所を探してみるが、「天国」はそうたやすくは見つからない。やがて地元の女性が現れ、小ぶりな湯壺(ゆつぼ)につかり「ここがいいわよ」と助け舟を出してくれた。鉄さび色の湯は芯から温まる。「夜がまたいい。今夜あたり、星空に細い月が懸かるかも」
夕食後、頼りは懐中電灯。月に誘われ「天国」への階段を再び下りていった。
文 尾島聡
撮影 上田頴人