鮮やかな紅葉で色づいた山々がうっすら雪化粧をまとってゆく。標高700メートルの山間にある貝掛温泉を晩秋に訪ねた。江戸時代から眼病に効く「目の湯」として知られる宿は、狭いがけ道と一本橋の奥にある。落ち葉と雪でぬかるんだ道に何度も足をとられそうになった。古人もわずかな望みを託して不自由な目でこの山道を登ったのだろう。
「目の湯治」は源泉が注がれる湯口で行う。先客の見よう見まねで、気泡が立つ湯に前かがみになって顔を埋めた。パチパチとまばたきを10回。しみない。ホウ酸や炭酸を豊富に含む湯は目薬を2倍に薄めたのと同じ成分だという。仰ぐと頭上に不動明王の石像。視界がぼやけて、一瞬にじんで見えた。
巨大なポリタンク2個に湯を詰めていた山崎保さん(62)は千葉から夫婦で来た。「僕は1年前から眼底出血を患い、妻もドライアイ。これで20リットル、約2カ月分。毎日欠かさず洗うよ」
築140年の木造家屋を改築した館内には古い柱や梁(はり)が残る。昔は至る所に鈴が結びつけられ、音を頼りに浴場に行けた。帳場の壁には、茶色く変色した「般若心経」の額が飾られている。「かつては浴場にあったもので、唱えながら入浴したのです」と大女将(おかみ)の長谷川史子さん(76)。回復を願う気持ちの強さに、心打たれる思いがした。
帰りの橋で振り向くと、木々が日差しを浴びてキラキラ輝いていた。粉雪が静かに舞い落ちる光景が、心なしかくっきりと目に映った。
=おわり
文 中山理恵
撮影 真田弘宣