譜めくりという仕事をご存じですか? 両手のふさがっているピアニストの代わりに、横に座って楽譜をめくる仕事です。普通はピアニストのお弟子さんがやるものですが、私が中学生の頃、当時の師匠に「僕のレコーディングに、譜めくりしにこない?」とお誘いをうけ、先生のレコーディング風景を見学できる! と意気揚々とでかけていったのでした。
しかし、ピアノの楽譜と言うのはバイオリンにくらべて、音符が小さい上、半端じゃない数の音がならんでいるのです。それをピアニストの邪魔にならないところから覗(のぞ)き見、絶妙のタイミングでめくるという、意外にも神経を使うものでした。
しかも、その時はレコーディングで、余計なノイズはご法度。録音は順調に進んでいましたが、最後に一番難易度の高い曲を、先生が渾身(こんしん)の力を振り絞り、完璧な演奏をしたとき、「すいませんノイズが入りました」。巻き戻してみると、それは紛れもなく私が楽譜をめくる音。あまりの恐怖に消えてしまいたい衝動にかられる私に、「大丈夫、次はもっと上手に弾くからね」と涙がでるような優しいお言葉。そして、言葉通りの素晴らしい演奏をする先生、細心の注意を払って楽譜をめくる私。演奏が終わり、ほっとして椅子(いす)に座ろうとした瞬間。「ギー?」
〈バイオリニスト〉
(2006年4月27日、朝日新聞マリオン欄掲載記事から。商品価格、営業時間など、すべての情報は掲載時点のものです。ご利用の際は改めてご確認ください)