ほぼ毎週、ベランダの植物のことだけを書き続けて2年間がたった。そして、これが最終回である。
今まで取り上げた鉢の数はいくつになるだろう。少なくともベランダには50数鉢があるばかりで、あとはすっかり枯れてしまった。
匂(にお)い桜、沈丁花、瓢箪(ひょうたん)、アヤメ、カリン、カランコエ、サザンカ、ブロッコリー、ムスカリ、ニッキ、ライム、茶、萩、シクラメン、芙蓉……。
枯れた思い出のある植物を挙げればきりがない。彼らは果敢に俺(おれ)のベランダを飾り、季節の喜びを伝えてくれたのち、すべてむなしく朽ち果てた。
試しては枯らし、枯らしては試す。俺の園芸人生はそんなことの繰り返しだ。
どんな植物でも繁茂させる奇特な人のことを緑の親指≠ニ呼ぶけれど、その伝で言えば俺の親指は根元から先っぽまで茶色い。枯れ葉色である。植物からすれば死神同然だ。
だが、逆にもしあらゆる植物が生き残っていれば、ベランダは完全にパンク状態なのである。鉢の置き場などとうになくなってしまっている。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
言い訳のように聞こえてしまうだろうが、ベランダ園芸の面白さはこの試しては枯らし、枯らしては試す≠ニころに存在する。
失敗しては新たな鉢を買ってくる気軽さ。花の咲く植物を窓ぎわに移動させ、死に絶えた鉢を奥の方へ押しやる自由度の高さ。我々ベランダーの利点はそこにある。ガーデナーではなかなかそうもいくまい。
都会の狭い空の下、我々ベランダーはいつだって必死に植物の世話をし、枯らしてしまってはため息をつく。そして何度も何度も花屋の店先に向かう。
だが、それでいいのだと俺は言いたい。枯れることもまた、植物の生命の1サイクルなのだから。
延命出来るに越したことはないけれど、我々と別種の生命は思い通りには動かない。それがコントロール不可能であることを、我々は身をもって知る。
つまり、園芸は植物を支配することではないのだ。むしろそれが出来ないことを教えてくれるのである。
枯れてしまった植物に、だから俺は感謝をささげる。
手の出しようもない生命の数々に、俺は感謝する。
ありがとう。
そして、さようなら。
=おわり