カリンが実をつけたのは開花のすぐあとだから、春のことだったはずだ。
たったひとつのその実は夏になるまでに、小学校低学年生の拳ほどの大きさとなり、鮮やかなキミドリ色を保ちながら木にしがみついているのである。
こうした実の成る植物はベランダーをひどくわくわくさせ、また同時にイライラさせもする。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
楽しみが花で終わらない以上、果実の出現はまことにありがたいのだが、残念なことに我々には収穫の時期がよくわからないのだ。
たいていのベランダーは家に最低2種類の園芸本を持っている。ひとつは花関係の百科事典で、今ひとつは実の成る木に関するシブい本である。
この2冊さえあれば、おおかたの鉢植えはカバー出来てしまう。買ってきた鉢それ自体が載っていなくても、葉の形などから種の類推は可能だし、そもそも鉢には自己紹介の短い文が札になって下がっている。
だがしかし、園芸本にも自己紹介の札にも“成った実をどの時点で収穫すべきか”はまず載っていない。
おそらく、それは園芸家というより、農家の知識だからである。我々園芸家は“おいしいカリンの収穫”に携わるべきではなく、むしろひたすら実をながめ、それがやがて表土の上に落ちるはかなさを悲しく見守るしかないらしい。
これまでも俺(おれ)は、せっかく成ったライムの実を“ではいつ収穫すべきか”の判断がつかないまま、結局はしぼませてしまった。ブドウの房が立派に成った状態で買ってきた鉢をそのまま手つかずにしたために、最終的に鳥に食われた。
とはいえ、俺は決して悔やんではいないのである。もしも俺がカリンの収穫時期を熟知し、ライムをせっせと栽培しては取り入れ、ブドウを完熟の状態で食卓に運んだとしたら、その時俺はもはやベランダーではない。農業の領域に片足を突っ込んだ何者か、だ。
これはゆゆしきアイデンティティーの問題なのである。農業は農家の専門技術であり、俺はそれを尊重したいのだ。こっちは、落ちた実をひろって食ったらうまかった、というようないい加減な存在でいたい。
……がしかし、カリンはいつ黄色くなるのか。いい加減ではあれ、収穫そのものには非常に憧(あこが)れる俺だ。