秋になって、ようやくアジサイが落ち着いた。
我がベランダの中で最も水切れに弱いのがアジサイだったのである。
したがって、花期が終わってからというもの、俺(おれ)はアジサイの水やりに追われていたのだ。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
こんな時期にアジサイの話かと疑問に思う方々も多かろうが、我々ベランダーにとっては春夏秋冬が常に戦いなのである。
ともかくアジサイには安心した。なにしろ、毎朝必ず水をやるようなマメさは俺にない。だから、ふと気づくとアジサイがしおれていて、大あわてでジョウロを持ってベランダへ飛び出すというパターンが繰り返されていたのである。
梅雨の頃合いにしか咲かないアジサイに、なぜ俺は翻弄(ほんろう)されているのかという苛立(いらだ)ちは夏の間中、ずっと続いていた。しかも、2年目のアジサイの鉢はたいした花も咲かせなかったのである。ということは、必然的に来年の花つきはもっと悪くなるに決まっている。
にもかかわらず、やつは俺に気苦労を与え、手間ひまをかけさせるのである。「徒労」という2文字が、ジョウロを持った俺の頭の中に点滅し続けたのも理の当然である。
それどころか、俺は時に怒りさえ感じた。見事な花を咲かせるわけもないアジサイが俺に水をねだってシオシオと葉を縮ませ、甘えてやまないのだ。その度にこちらはどっきりし、あわててジョウロを持ち出す。
しかし、いっそ枯らしてしまおうと思うことが一度としてないのが不思議であった。俺は苛立ちながらも疲れた体をものともせず、急いでやつの世話をした。
不肖の息子ほどかわいいという親心とも違う。自分がひとつの生命を絶ってしまうことへの恐れ、または申し訳のなさ。それがいつでも苛立ちに勝ったのだ。
花つきをよくするための植え替えさえ行わないような、面倒くさがり屋の俺にさえ、生命への責任感のごときものや憐(あわ)れみらしき感情が強く存在したらしい。
その事実を教えてくれた弱々しいアジサイが落ち着いた。今までのようにすぐにしおれなくなった。
すると長く続いていたストレスは一気に消え去り、喜びとともに深い安堵(あんど)が俺に訪れたのである。
どんな花であれ、俺は来年のアジサイが楽しみだ。