夏の終わりに入手したシャボン玉の木について、俺(おれ)は当時、シャボン玉が出来る以外に何の楽しみもない鉢だから、期待も展望もない≠ニ書いた。
その長く売れ残っていた鉢を、俺は人助けのような気分で買っただけだった。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
ということで、シャボン玉の木はまず妙に小さな鉢に植え替えられた。限られたベランダの面積を、俺はシャボン玉の木に費やすつもりがなかったのである。
水やりも他の鉢に比べるといい加減であった。鉢から抜けるほどやればいいものを、つい面倒になって表面をぬらすだけに終わる。
自分でも非人情だとは思うのだが、鉢への愛情にはどうしても差がついてしまいがちで、これから咲く植物には念入りな世話をするし、いつまでたっても咲きそうにない植物には無意識のうちに怠惰な対応をしてしまうものなのである。
で、我がベランダにおいて最も不当な待遇を受けることとなったのが例のシャボン玉の木なのであった。
ところが、そんな不遇の境涯におかれたシャボン玉の木は、多少の水不足にもしおれず、日陰の中にあってスクスクと育った。どれほど愛情が足りなくても、やつはいじけたそぶりを微塵(みじん)も見せず、のびのびと茂るばかりだったのである。
その姿を目にするうち、俺は次第にホロリと来るようになった。情にほだされた。仕方なく拾った捨て犬が猛烈になつき、一方通行の愛を日々示してやまないようなものであった。
俺はシャボン玉の木へのいわれなき差別を反省し、文句ひとつ言わない我慢強さに惜しみない賛辞を送るようになった。
結果、ベランダの全植物のうちで最も劣等的立場にあったシャボン玉の木は、俺の最高の寵愛(ちょうあい)を受けるに至った。他のどの鉢よりも頻繁に目をかけられ、いまや水の量も十二分なのだ。
小さな手のひらのような薄緑色の葉を上部にたくさんつけ、その葉を見る間に大きく広げるシャボン玉の木は、丈自体もどんどん伸ばして、ついには鉢の6倍はあろうかという成長ぶりを見せている。
いつか花が咲くかもしれない、と俺はシャボン玉の木に余計な期待と展望を抱く始末である。育てる側はいつも現金なものだ。