育つものがあれば枯れるものもある。
例えば、俺を有頂天にさせたニッキも、今はもうただの棒切れだ。ある時、葉が黒ずみ始め、手の施しようもないまま枯れていったのである。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
ピンクネコヤナギもまた枯れて久しい。こちらは小さな葉が縮こまるという症状がきっかけで、そのまますべての葉がカリカリに乾いてしまったのだった。
ドウダンツツジに至っては、ほとんど一晩で枯れたという印象である。前日まで元気だったはずの葉が、夜を境に茶色く変色してしまったのだ。
茶の木も現在は哀れな姿となっている。何枚かの葉の周囲が枯れ始めたので、俺はあわててその葉をむしり取ったのだが、時すでに遅し。残った葉も次々に同じ状態となって、やがてすべての葉がむしり取る必要もなく、自ら散り落ちていったのである。
中には跡形もなく枯れてしまった植物もあって、こうなるとそれが何であったかを思い出すことが不可能である。そこにはただ土を入れた鉢だけがあり、かつて何かが植えられていたという記憶がかすかに残存するのみだ。
こうして明らかに枯れてしまった植物の鉢を、しかしながら俺はすぐさま処分することが出来ない。
これは性分というか、習慣のようなものなのだが、万が一根が生きていたら復活するかもしれないと思うのである。再び芽を吹くかもしれない植物をむげに捨ててしまうことが、俺には恐ろしいのだ。
したがって、あきらめの悪い俺は、棒切れと化したニッキにも水を少しやる。
カリカリになったピンクネコヤナギにも、茎が真っ茶色に染まったドウダンツツジにも、生命のかけらも感じさせない茶の木にも申し訳程度の水をやる。
そして、あろうことか、それが何であったかすっかり忘れてしまい、いまや土しかない鉢にもやっぱり少しだけ水をたらしてやるのだ。誰だか知らないやつの復活を願って。
この悪習慣は半年以上続く。いわば俺は植物の死をゆっくりと認識し、やがてようやくあきらめてその鉢を整理するのである。
今年もそろそろあきらめの時期がやってきた。とっくの昔に終わった死を、一気に認める寂しい時が。