黄色くなった藤の葉が、一枚残らずベランダに落ちきった。12月1日のことである。
俺(おれ)にとっては、この日こそが冬の始まりであった。同じことが11月に起こってもそう言うだろう。藤が枯れきった瞬間が、我がベランダの冬なのだ。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
なぜなら俺は、枯れ木となった藤の剪定(せんてい)に入るからである。来年の春、藤の花を咲かせるための準備が、より一層リアルに冬の到来を感じさせるわけだ。
ベランダーにとって、季節はこのようにひとつながりになっている。植物に触れていない人々にとって、冬はただの冬に過ぎない。したがって、ファンヒーターの用意や厚手のコートの新調を考えていればすむ。
だが我々の思考はまったく違う。冬は次の春のためにある季節なのだから、花咲き乱れるその日を想像して、せっせとたゆまぬ努力を続けなければならない。
ベランダーはいつでも、眼前の季節を堪能しつくすと同時に、もうひとつ先の季節を念頭に置いている。逆に言えば、もうひとつ先の季節があるからこそ、今ここにある季節が大切でならないと感じるのである。
この感じ方は自分がしばらくは死なないということを前提としていそうに見える。だが、自分がもし死んでも花だけは咲いて欲しいとベランダーは思う。実に奇妙な感情である。
我々は季節を先取りすることによって、植物に未来の生を託す。だからこそ、やれるだけのことはやっておいてやろうと考える。
しかしこれは、子供に対する親のような気持ちではない。おそらく我々は、植物を育てることで自分が死ぬことへの寂しさから逃避しているのだ。次の季節に咲く花が我々の生命の一部分であるかのように感じたいのである。命の投影だ。
というわけで、俺は俺の生命を投影した藤の枯れ枝を熱心に確認し、来年花が咲くはずの新しい枝を探した。その新しい枝を剪定すれば、春には命の謳歌(おうか)を見ることが出来るのである。
ところが、残念なことに、細く短い一本を除いてすべてが古い枝であった……。藤は今年同様、来年も命を謳歌しないだろう。
来春の楽しみは、ひとつ前の冬についえさった!
藤が身代わりになれない以上、俺は単体で生きていなければならない。