我がベランダに新しく加わったのはラッパ水仙だ。
俺(おれ)はいつものスーパーの園芸売り場で、その鉢を買ったのだった。
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| 題字と季語イラスト・上田みゆき |
売り場には他にもオブコニカやサイネリア、はたまたしだれ梅などがあったのだが、あるきっかけが俺の背中を押した。
そのきっかけというのが60に近いおじさんである。
厚手のジャンパーを着込んだおじさんの日焼けした顔には、深い皺(しわ)が刻まれていた。手はごわごわしていて、肉体労働の長い年月がうかがわれた。
そういうおじさんがじっと水仙の前に立ち、何度も鉢を持ち上げては真剣な表情を続けていたのである。
鉢底から垂れた水滴がズボンにかかるのにもかまわず、おじさんは水仙の値踏みをした。意を決したように財布を取り出し、片方の手のひらに中の小銭をすべて乗せる。幾つかの硬貨が足元に落ちた。
金を拾って380円あるのを確認したおじさんは、大事そうに水仙を持ってレジに向かった。
あきらかに植物を買うのに慣れていない。にもかかわらず、おじさんは他の植物に目もくれなかった。
自分のために買ったのではなかろう。家へのみやげがわりという線もない。
だとすれば……と考えてすぐ、奥さんへの見舞いだとひらめいた。水仙の清らかさはつつましやかな病室のベッドによく似合う。オブコニカやサイネリア、あるいはしだれ梅はそういう時、不釣り合いだ。
いずれ咲く黄色い花は、やはりつつましい希望を感じさせる。すっくと立った葉も茎も、愛する者の快癒を願うのにふさわしい。
絶対に見舞いだと決めつけた俺は勝手に感動した。奥さん、どうぞ病気に負けないで下さいとまで祈ったし、水仙を選んだおじさんの感覚にゆるぎない愛情を感じ取って身震いもした。
真実を確かめる術はないが、人の雰囲気と花の組み合わせは多弁である。事情にほぼ間違いはあるまい。
ということで、俺は俺でお見舞いがしたくなったのである。病室がどこかはわからない。だから、俺のベランダで水仙を咲かせることが、見知らぬ女性への祈りということになる。
鉢植えは根づく≠ニいって見舞いに不適当であることを俺は忘れていた。
妄想でまた鉢が増えた。