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マリオンTIMES

「死ぬまで歌い続けたい」
ロックバンド「サンハウス」の元ボーカリスト柴山俊之さん

死線をさまよっても、なお歌い続けたい。日本のロック草創期に名を刻むバンド「サンハウス」のボーカリストだった柴山俊之さん(78)が12月6日、心肺停止直前の危篤状態から奇跡的に復帰して以来3度目のステージに立つ。25日にはサンハウスの未発表音源や映像を収めたCDとDVDのボックスセットもリリースする。「いつまで続けられるかわからないけど、お客さんに満足してもらえる歌を死ぬまで届けたい」。柴山さんは傘寿を前に音楽への衰えぬ情熱を語った。

サンハウスは1970年、福岡市で結成された。黒人ブルースのカバーなどをライブで演奏。75年に最初のアルバム「有頂天」をリリースし、78年にいったん解散するまでにライブ音源の1作を含むアルバム3枚を発表した。その後も未発表音源やライブ収録が新譜として出し続けた。

柴山さんの叫ぶような歌と、のちにシーナ&ロケッツで活躍する鮎川誠さんのリードギターを看板に激しいロックを聴かせた。ルースターズやモッズ、陣内孝則さんらのロッカーズ、ARBなど「めんたいロック」と呼ばれる博多から羽ばたいた後続バンドに大きな影響を与えた。

ボックスセットは結成55周年と「有頂天」リリース50周年を記念して12月25日に発売する。鮎川さんが生前に整理していた貴重な音源や映像を、柴山さんの証言・監修で制作した。鮎川さんの妻でシーナ&ロケッツのボーカルだったシーナさんの死去後にバンドの2代目ボーカルを務める三女のLUCY MiRRORさんと次女でマネジャーの純子さんらがまとめ上げた。CD7枚、DVD6枚にブックレットをつけた豪華な内容で、初期の荒々しいサウンドを伝える71年の最古のライブ録音など、貴重な発掘素材が多数収める。

 

瀕死の危篤状態から蘇生

 

――倒れた時はどんな状況だったのですか。

一昨年の11月26日、「怒髪天」のライブにゲストで出るリハーサルの前、自宅で激しい腹痛に襲われて横になった時、「家のトイレの小窓から出ていかんと、俺は死ぬ」と、うわごとを言っていたらしい。妻が呼んだ救急車で武蔵野赤十字病院に運ばれたら、血圧が上40まで下がっちゃって。すぐ手術を受けたけど、腸が破裂したようなひどい出血で、敗血症ショックを起こしていたそうだ。

腸が破裂するような心当たりはないし、前後の記憶もないんだけど、手術は3回受けた。1度、心臓がほとんど止まりかけたけど、気道を確保するために、のどを切って、管を入れたら、心臓が動き出したんだって。夢を見たんだ。大きな川の向こうからミノをかぶった船頭が小舟で迎えに来て、「早く来い」と。川なのになぜか信号があって、赤だったよ。死んだ自分がサンハウス時代のステージ衣装を売っている夢も見た。集中治療室に2カ月入った後、別の病院でリハビリのために2カ月入院した。

――年齢的な厳しさもあると思いますが、死にかけた状態から、再びステージに立とうとよく思いましたね。

 

2025年6月9日、村﨑康麿さん撮影

 

俺は6月9日、「ロックの日」の生まれ。リハビリで入院中だった昨年1月、俺の女性スタッフが勝手にその日にライブの仕事を入れちゃった。「声出んし、できんよ」って断ったけど、ボイストレーニングをしてみよう、という話になってね。

主治医の先生が「1回やらせてみたら。諦めるだろうから」と言って、病院が小さな部屋を用意してくれた。妻が「たきび」や「うみ」みたいな童謡とかをCD-Rに入れてくれたのに合わせて歌ってみた。少しだけど、声が出た。

先生が「これはいけるかも」と言って、しばらくロビーみたいな少し広い場所で歌わせてくれた。5曲も歌うときつかったのが次第に声が出るようになって、8曲ぐらい歌えるようになった。ほかの患者さんもいて、拍手されて、ちょっと恥ずかしかった。「キングスネーク・ブルース」みたいなサンハウスの曲も歌ったよ。

6月9日に東京・下北沢でやったライブは椅子を用意してもらったけど、立って歌う方が声が出た。サンハウスの曲を中心に45分のステージを2回、杖をつかずに歌った。看護師さんも4人来て、感動してくれた。今年も6月9日に同じ場所で2時間半、歌った。それが退院後2回目のステージだった。

 

ブルースから受け継いだダブルミーニングの詞

 

――サンハウスの解散について、柴山さんも鮎川さんも商業的に大きな成功をつかめなかったという趣旨の発言を残しています。ところが、解散後、今日に至るまで過去のライブなどが新譜としてリリースされ続けています。

時代なんだと思う。俺が詞を書き始めたのは、サンハウスが1971年に一度解散しかかった時、解散は日本語のオリジナル曲をやってみてからにしよう、という話になったのがきっかけ。最初にマコちゃん(鮎川氏)に見せた詞は「庭はポカポカいい天気」みたいな感じ。フォークの焼き直しで、全然良くなかった。あれをやっていたら、サンハウスはすぐに終わっていた。俺が書いたサンハウスの詞は、黒人のブルースにあるダブルミーニングのやり方を受け継いでいる。俺はそれを面白いと感じてね。

「キングスネーク」はエロスを歌った曲でもあるけど、蛇のモチーフはジョン・リー・フッカーの歌にあるんだ。ジョン・リーは黒人差別に苦しみながらも、「自分は強いんだ」という気持ちを黒い蛇のモチーフに込めた。俺はそういうのにひかれたわけ。生きていく上でそういうものを手に入れたいと思った。

 

危篤状態から復帰して最初のステージ=2024年6月9日、村﨑康麿さん撮影

 

ダブルミーニングは、うまく歌を目立たせることにもつながったけど、失敗すると、ものすごく格好悪い。でも、オリジナル曲を作り始めたら、面白くなってね。自分で詞を書くようになって、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフの詞のすごさ、表現の深みも分かるようになってきた。

それから、大事なのは詞の言葉でビートを作り出すことだね。これにかけては、俺に勝てる人はいないよ。

サンハウスの曲は全部、詞を先に作った。曲が先だと、詞が飾りものになってしまうからね。他の人の曲を聴いている時、よく詞が浮かんでくるんだ。「ふるさとのない人達」はサム・クックの「A Change Is Gonna Come」を聴いていて書いた詞。「夢みるボロ人形」はフォー・シーズンズの「悲しきラグ・ドール」を聴いていた時だったよ。

歌に関して言えば、そんな俺の歌がサンハウス解散後の時代にリスナーの耳に届くようになったのかもしれない。何を歌っているか、分かる人と分からん人の両方いるのが面白い。女性の方が分かるんだよな。

 

叫ぶような歌唱の誕生

 

――野太い声で叫ぶように歌うのは最初からだったのですか。

違うよ。サンハウスは最初、英語のカバー曲ばかりやっていたんだけど、日本語の歌を作るようになって、普通に歌ってみると変な感じに聞こえたんだ。というのも、マコちゃんが音域の良いところを自分で取っちゃって、ギターはそれより高くても低くてもダメというんだ。だから、俺はアニマルズのエリック・バードンのドスのきいた歌い方や、トラフィックのスティーブ・ウィンウッドの歌唱を勉強し、さらにマディやウルフ、ジョン・リーをモデルにした歌い方を始めた。1970年代前半までの日本で、そんな荒々しい歌い方をする人はほとんどいなかったよ。

でも、「キングスネーク」みたいな曲を歌うのは、最初のころは恥ずかしくて、本当の自分は違うんだと思っていた。ある時、男性ファンから「どうしてステージで恥ずかしそうにやっているのか。堂々とやったら」と言われた。それで、歌舞伎が好きだったから、弁天小僧菊之助という芝居の登場人物からとった「菊」という名を名乗り始め、着物をアレンジしたようなステージ衣装を身にまとうようになった。堂々とやるために、柴山俊之とは別な自分を作ったんだ。

――今後の音楽活動をどのように思い描いていますか。

体力が十分じゃないから、たくさんのステージはこなせない。でも、お金を払って俺を見に来てくれるお客さんに「良かったねー」と思ってもらえる歌を届けたい。命拾いしてから2回やったライブは200席ぐらいだけど、15分とか30分とかで売り切れたそうだ。若いファンも来てくれて、ありがたいよ。死なずに生きていられて良かった。死ぬまで歌い続けたい。引退は死ぬ時さ。

そういえば、家に未発表の詞が500曲分ぐらいあるんだよなあ。捨てるわけにもいかないし、あれ、どうしようかな。

(聞き手・構成 川崎卓哉)

しばやま・としゆき RubyやZi:LiE-YA(ジライヤ)などのバンドでも活動。12月6日、京都市のライブハウス「磔磔(たく・たく)」で怒髪天のライブにゲストで出演予定。

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